レースクイーン

 F1はグリッドガール(レースクイーン)を起用することを廃止するようだ。理由はいくつかあるみたいだけれど、その中には女性蔑視の声があがっていたこともあげられる。この場合、具体的にどういった点が蔑視になりうるのだろうか。気になったので少し考えたい。

 まず、蔑視をする側の内心において相手を蔑む意思があれば当然にそれは蔑視であるといえる。一方で単に蔑視する意思が必要な要件とならない場合もあるように思う。たとえば、顔の黒塗りはその意図を問わずアフリカ系の人々への蔑視と捉えられる。

 考えるべきなのは後者のような蔑視の態様にレースクイーンの件が当てはまるのかという点だ。顔の黒塗りの場合は、それが歴史上あからさまに蔑視として行われていた点、またそしてアフリカ系の人々の大多数の間にそれが蔑視であることへの共通の認識が存在する。

 レースクイーンの場合はどうか。レースクイーンで問題になるのはこの職業がセックスアピールを売りにし興業において、いわゆる花を添えるものであることが女性への蔑みとなるかというところだ。例えばこういう考えもあるかと思う。女性を性的な対象としてのみ評価することは、女性をモノ扱いする行為であり不快である。

 女性の視点にたってこの考えを支持してみるとこんな感じだろうか。性的な事柄において女性たちは生物学上また文化的にも受け身である。したがって一方的に男たちに穴として性的対象として扱われることはどこか無理矢理覆い被されるような圧力を心のなかで感じて不快であり屈辱的である。

 僕自信が納得できるよう女性の心理的な側面から考えてみたけど、実際の女性たちはどう思っているのだろうか。もちろんこの他に道徳的な観点から性について考えてレースクイーンが蔑視であると結論づける考えも当然あるけれど道徳の問題はやはり「本物の黄色とは何か」を探すように果てしない旅路になると思うので触れない。

 まあ、とにかく蔑視と捉えることも不可能ではないのだ。では大多数の女性たち、特にこの場合レースクイーンたちが自身が性的な対象として見られることに蔑みを感じているのかという点はどうか。やはりレースクイーンたちは自身のセックスアピールをもって商売をすることに自由な意思で同意したのであり、仮に内心で不快感を感じていようとある種のモノ扱いを客観的に甘受していると評価される。だが、ある立場の女性の側からすればレースクイーンたちのおかげで、より男性たちはつけあがり、女性を性的に消費しはじめ、その余波は性的な対象として見られたくない女性にも及ぶのだと考えることもできる。いわゆる迷惑だからやめて。じゃあまあレースクイーンでない人の認識も多少加味するとする。

 では上記の要件を考慮した結果、仮に一連の問題を女性蔑視と捉える女性が「大多数」だとすると今回の件に異論を唱えるべきではないのか。僕はそうは思わない。そうなるにはまだ足りないと感じる。親指を立てるポーズは同意や賞賛といったポジティブな意思を示すことが日本人の共通の認識であるが、これと同等のレベルでの意味の共有が今回のような件が適用されるには必要だと思う。

 結局、僕の意見は、少数派あるいは数の面で二段目、三段目にたつ集団を尊重すべきためにもう少し厳格な要件のもとに規制が行われればいいのに、という感想に帰結する。