ひきこもり生活を終えて5か月程が経ったという話

 排ガスと滲んだ絵の具のような鉛色の空にお別れを告げ、僕が4年間を過ごした町、板橋を去ることになったのは今から5年ほど前、2012年のことだった。

 その日、引っ越し屋から派遣された2人の男が、ワンルームに詰め込まれた雑多な荷物をアパートの1回に引きずり出そうと絶え間なく作業を続けていた。僕は所在なさげにその光景に目をやったり、たまに煤だらけのベランダに出て高速道路を走る車をじっと眺めたりした。

 空が青かったことを覚えている。その時の感情はよく思い出せないけれど、多分、ほっとしていたんだと思う。大学を卒業したその時点で、一度も就職活動などしていなかったのに。

 学士号を取得した人間が、その後、労働を以て自活するのは疑いの余地なく自然なことだ。朝の道で顔にあたった雨粒を不快に思うように。しかし、僕は結局、一日の始まりにずぶ濡れになることを選んでしまった。これは少し風変わりなことだった。

 東京から実家に戻った後、差し当たって日銭を得るために、パートタイムの仕事を探そうとした。責任のある仕事はしたくなかった。責任は僕のような神経症の男にとって、違法金利のように際限無く増殖していく厄介なものだった。だから最初から負債を負わないよう、細心の注意を図らなければならなかった。

 パートタイムの警備員の職を見つけ、面接に行った。その男は親切に僕に応対した。お互いの印象は悪くなかったように思う。しかしその後、合否の連絡はなかった。

 僕は以降、アルバイト探しをやめてしまった。もともと糸は、学生時代の抑うつにより今にも千切れそうに張り詰めていて、その限界が近いことを感じていたのだけれど、結局、僕は自分の手で、静かに、しかし確実にその糸を断ち切ることを選んだ。

 僕のこの行為は怠惰にしか映らないかもしれない。事実、全てを諦め、社会との関係を断ち切るのまだ早すぎるし、限界に達するのを見届けることだってできたともいえる。しかし、ただ僕は不快だったのだ。対人関係というものも、好きでもない仕事を義務として、半ば躁的に受け入れようとする偽った自分の態度も。

 こうして、僕は、今後5年間の内3年間を全くの無為に過ごすこととなり、2年間を精神科医の助力あるいは彼との取引を通して社会復帰を目標に足掻くこととなった。

 無為に過ごす時間は悪くはなかったけれど、労働を果していないことから自分の価値をひどく疑うようになったし、収入がないことで経済的な面での不安にも悩まされるようになった。こうしたあまりに典型的な問題は、時々僕を激しく落ち込ませたり、暴力的な行為に駆り立てたりした。

 僕を焦らせることもあった。それは、ひきこもりも30代を過ぎれば、いかなる同情も世間から得られないだろうとの未来への不安だった。この20代と30代のボーダラインについての問題は、ひきこもりを終えるにあたって最も強く僕の背中を押したかもしれない。結局、僕はひきこもりを続けるには、他人の目を気にしすぎる男だった。

 20代も半ばに差し掛かった時点で、意を決し、僕は医師の下で投薬治療を受けることになった。これは学生時分以来の抑うつ感と社交不安を改善するためのものだった。そこで僕は医師に従順な態度をとった。その代わり、彼は僕のために公的な書類を整えることを厭わなかった。

 そして通院を始めて2年ほどで就労支援施設の利用が決まった。これはいわゆるA型事業所だ。僕の通うことになったA型事業所では、最低賃金が労働の対価として利用者に支給される。この事業所では、軽作業などをいくつかの企業から請け負っているが、その請負の対価は我々利用者のための人件費を完全に下回っているので、利用者のための賃金は公的な資金から補填されているのが現状だ(他の事業所ではこの限りでない)。実質的に体面のいい公的扶助であるといえる。

 このように、ひきこもりを脱したわけだが、実際のところ1人前とは程遠いわけだ。やはり格好の悪さはどこか拭えない。ただ、きれいごとを捨て、精神科の門をたたき、事業所で日銭を得るまでに至ったこの一連の経緯を僕は気に入っている。なにせそれは、生きようという態度を生まれて初めて積極的に示したものだからだ。