近況

 パーマ

 生まれてはじめてパーマなる特殊装備を身に付けたよ。
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結構時間がかかるんだね。そして費用も。ただでさえカットに5000円かかるのにパーマのお陰で倍プッシュ。ああ、散髪で諭吉が溶けるのも初めてだわ。しかし軽く頭頂部にかけただけで1時間くらいかかるということは、女性の手の込んだスタイルだと待ち時間でワンスアポンアタイムインアメリカが見れちゃうんじゃない?美容室に雑誌が一杯ある理由がわかったよ。

 

DTMのレッスン

 音楽製作を指導してくれる体験レッスンに行ったのでそれについて書いていく。

 当日は地下鉄を乗り継いで教室に向かった。地上に出て地図を見ながら歩き目的地のビルに着く。このビル、事務所として使われている部屋もいくつかあるらしい。しかしビルの内側は普通のアパートのようになっているため、いきなりガチャっと開けて教室に入るのはためらわれた。幸いピンポンがあったので押す。女の子が出てきた。彼女は僕の名前を確認した後、部屋の中に入れてくれた。女の子から手渡されたアンケート用紙に記入をする。プロになりたいかとあったので、なれるとは微塵も思ってないがプロに出来ればなりたいに○をつける。目標を高く設定した方が講師の指導も違ってくるだろうと踏んだためだ。

 記入を終えレッスンが始まる。女の子を受付に残し、僕と講師の男性とでレッスンスペースに入る。講師は年上だがまだ若そうである。アーティスト風だが知的な印象もある。彼は僕のアンケートを読んだが、ふざけて将来の夢に「働く」と書いたり、職業欄に「秘密」と書いたところは無視した。いいもん...普段使っているプラグインなどを聞かれた後、早速持ってきた僕の音源を聞いてもらう。直前に作ってきたやつだ。パソコンに接続されたモニタースピーカーから僕の曲が流れる。講師は下を向いて、時折うなずきながら集中して耳を澄まして聞いている。緊張しながら曲が終わるのを待つ。講師の感想はというと、高音の処理(これはわかってた)や所々に入れたSEや、FX的な音の処理について甘さがあると言われたが概ね悪くない感じらしい。wavesのアナライザーを使ってms比など細かく調べられる。普段ろくにしっかりしたアナライザーを見ない僕は何を基準にしてこの光景を評価すべきかはわからなかったけど、講師曰く音響処理に関して致命的に悪いところはないようだ。意外と僕の耳も捨てたもんではなかった。

 その他にも過去作った曲を聞かせる。まぁ反応は良くない。直近のものが一番まともというわけだ。そこらへんは自分でもわかっていたので驚かない。ひがしまるうどんスープの曲のリミックスみたいなふざけたものも再生されたが案の定、講師は突っ込まなかった。スルースキルが高い。

 一通り聞き終えて気になったが作曲そのものについての意見はなかった。変則的に使ったコードなんかのところで、うんうんと頷いていたので一応作曲面での評価もしてはいるらしい。なにも言わないのはこれ以上は有料だぞ、小僧ということか。しかし察するに講師の本業はドラムとエンジニアリングでたまにアレンジや作曲という感じ。果たしてどこまで作曲についての指導が受けられるか不安は残る。

 もちろん有用な話も聞けた。月になん十曲もミキシングしなければならない彼は、アナライザーを使い視覚的な方法を通して処理をすることで一定の質を保ちつつ迅速に仕事を進めるらしい。やはりプロの世界である。一曲に何日もかけられない以上、妥協点を見つけながら数々の依頼をこなしていくのである。

 いくつか彼が僕の質問に答えた後、体験レッスンは終わった。とりあえず今後も受けてみるかという気になった。受付で座って再びレッスンについてのアンケートに記入する。すると受付の女の子が僕のアンケートを見て、アニソン好きなんですねと話しかけてくれた。そしてどんなアニソンが好きかという面倒な質問をしてきたのだが、くそ真面目にMONACAの曲といってしまった。わからなさそうな感じだったので、化物語の曲なんかを製作していると教える。しかし化物語ってシャフトじゃないんですか、などと言われ、噛み合わない。説明してMONACAは音楽製作事務所であることを理解してもらった。その他にも傷物語は三部作で見に行くの大変でした、といわれたが結局僕はコミュ症っぷりを発揮し、うん...としか答えられなかった。

 契約書にサインし教室を出る。女の子が出口まで見送りに来てくれたので、失敗を取り戻すかのように丁寧に頭を下げお礼を言い別れた。

 こうしてレッスンに通うことになった。次回、一曲作って持っていくのだが今現在作業は進んでいない。歌ものをオケまで作って持っていくつもりだが後数日で期日である。しかし、いくら手と頭を動かしても納得のいくメロディなど出ないもんは出ない。明日も作業か...無職なのに妙に忙しい。

雑記

・近況

 

 昨日、暇を潰しにイオンの中華料理屋に行った。金もないので一杯のビールをエビチリをつまみに飲んで店を出た。もう少し飲みたかったので帰り道に成城石井でシューマイとストロングゼロを買ってから家に戻った。成城石井の惣菜は良い食材で作られていると評判なのだが悪くはないかなというくらいの味だった。たまにスポンジみたいにすかすかの安っぽいシューマイが弁当なんかに入っていることがあって腹が立つ。さすがに成城石井のものはそんなことはなかった。一緒にストロングゼロを飲んだがあまり酔えなかった。これは酔わずして飲むのは困難な飲み物だと確認。ただ眠気だけが訪れて来たので逆らわず着替えもせず眠りについた。

 朝起きて、下らない内容のブログを他サイトで更新した。最近、文章を書いているときは夢中になれることに気づいた。どうも今まで言葉を扱うことが苦手だったけれどコツを掴みつつある。幸福論でお馴染みのアランが散文は書きながら考えると言っていたが、自分にもそれができつつあると実感している。ちなみに僕はスマホで全ての文章を打っている。スマホならリラックスした姿勢で作業できるので頭の中もうまく整理されていくんじゃないかと思っているがどうだろう。対して、椅子に座って作業をする音楽製作は緊張感も強いし疲労度も大きい。スマホアプリの音楽製作ソフトは今のところどれもPC版のものには及びようもない操作性なので、寝ながら作曲はまだまだ先の話しになりそうだ。

 上記のブログを更新した後はやる気が起きず寝ながら時が過ぎるのを待つ。精神科で就活の進捗を報告する際の言い訳を練らねばならないと頭の片隅で気にかけるもそれすら実行には至らない。

 日が落ちてから、赤身の肉を買いに出掛けた。なぜ赤身肉かというと、赤身肉には精神を安定させ抑うつを和らげる作用がある、らしいからだ。安いオーストラリア産の牛肉を買ってきてフライパンで焼いた。ガジガジと焼いた肉を噛んでは飲み込んだ。旨くはないけど食べごたえがあり満足感を覚えた。安い肉ほど効きそうな気がする。良薬口に苦しだからだ。

 

・へんたつ

 

 けもフレたつき監督が作った2分ほどのアニメーション動画『へんたつ』を見た。内容はというと女の子二人が喫茶店でお茶を飲みながら会話するだけのもの。カットはほぼ長回し。しかし、その会話は自然体を意識した抑揚ながらもいわゆるアニメ声で展開されるというところに新鮮な感じを受けた。会話の内容もとりとめがないがテンポや雰囲気が逸脱しないようかなり抑えられている印象。女の子たちの自然な会話、というタランティーノがデスプルーフinグラインドハウスでやったような試みをアニメに持ち込もうとしているのだろうか。僕はこの動画から、たつき監督の才能に疑いがないことを見いだしたけどみんなはどう感じただろうか。今回、たつき監督は、はっきりいってタランティーノより上手くやっていると思った。彼がアニメーションでやりたいことは正しいし、アニメだからこそもっとも良く表現できるものだと思う。声優(中の人)を無機質な3Dモデルが演じる。ヴァーチャルユーチューバーに通じる新時代の表現をたつき監督は見ているのだ。

孤独を求めて中津川に

 先日、気分をリフレッシュするために小旅行に行きました。元々僕は極端なインドア派なので、旅行という行為自体好きではないのですが、その僕が突然一人で旅に出たのは、おそらく精神的ストレスが限界に達しようとしていたのを自ら無意識に感じ取っていたためでしょう。

 行き先は岐阜県中津川市でした。実はこの町には一度、小学生の時に学年全体が参加する学校の自然体験合宿で訪れたことがあります。当時は行きたくもないのに参加をさせれてとても嫌な思いをしました。ですから中津川はあまり僕にとっていいイメージのある町ではなかったのです。それなのになぜこのような苦い思い出が眠る場所を行き先に選んだのかといいますと、それはやはりあれです。リベンジです。アベンジャーです。大人になった僕にはもう怖いものなんてないのです。当時と違って自由にホテルの自販機で酒だって買えます。好きでもない連中と風呂に入ったり、枕を並べて一緒に眠る必要もないのです。そう、僕は中津川のホテルで酒をかっ喰らいスマホでエロ動画を見ながら寝ることで、当時のツライ思い出、そして親の仇より憎い集団行動という文化に引導を渡すことができるのです。まぁブログなので大げさに書きましたが、中津川は家からもそう遠くないし静かそうでいいかな、と思ったのも理由の1つです。

 では、旅行当日のことを話したいと思います。ホテルの予約(素泊まり)を前日にし終え、当日にコンビニでお菓子やパンを買い込んだ僕は駅に向かいました。実は中津川は僕の住む町から県外にあるのですが最寄りの駅から電車1本で着いてしまいます。うとうとしながら電車に揺られていた僕は気がついたら終点の中津川駅にいました。でもいいんです、これで。電車の中なんて自分以外にも乗客がいて意識明瞭ならイライラするだけなんですから。僕はとにかく独りになりたいのです。

 電車を降りてホテルへの送迎バスに乗ります。レツゴー。しかしこのバスの運転手、意外と山道を飛ばします。僕は平静を装いながら、貴様が間違ってガードレールを突き破って落ちたら、このどこか知らんど田舎の山道の谷底に転がっていくんやぞと、心のなかで運転手につめよります。しかし僕の心とは裏腹にアクセルをベタ踏みし続けた運転手です。でもまぁ、一応無事にホテルへ僕と同乗していたもう一人のおじさんを届けてくれました。

 チェックインです。実は一人でホテルに泊まるのは初めてです。ラブホに一人で入ったことはありますが自動精算だったのでノーカンということにしておきます。受付の男性は丁寧に館内の設備などを教えてくれました。マニュアルなのでしょう。同じことが部屋にある冊子にも書いてあります。説明を真面目に聞かなくても同じことでした。いや、そんなことより誰もいない部屋に僕独りです。いいですなぁ、独りは。一人でいて辛いのは女連れの男を見るときだけです。女を連れて歩く優越感のほかに一人の良さに敵うものはないのです。その一時の優越感のために男は人生をかけて競いあってるんだから競争を降りた僕からすれば噴飯ものです。まぁ、多分向こうも同じように僕を見ているでしょうが。

 ホテルを出て周囲の遊歩道を歩きます。素晴らしい。ランニングしてる女性が一人いるのみです。川が流れているのですが水も僕の町とは比べられないほど澄んでいます。
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その時、もしかしてここに住めばこの幸せな気持ちを一生味わえるんじゃないの?との期待が頭をよぎります。しかし僕もバカではありません。田舎の濃密な人間関係に付き合えるスキルなど僕は持ち合わせていないことくらいわかっているのですよ。ふっ。いつでも電車で来ればいいんです。田舎なんて。

 部屋に戻り館内の自販機で酒を買い飲みます。平日の昼間に旅行先で酒を喰らう無職ほど反社会的な勢力がいるでしょうか。飲みながら、思い出、社会システム、将来への不安、全てに絶縁状を叩きつけます。俺は自由だ。客観的に見るとたかが小旅行でここまで調子に乗れる僕も安い男です。

 館内を見回って気づいたのですが、このホテルには居酒屋があります。
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僕は思いました。このチープさスナックヤマトではないかと。
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結局行きませんでした。ラーメンなど軽食が食べられるようです。どんな味か気になる。ただ期待したらダメな感じはすごいしました。

 まあこんな感じでこの後お風呂に入って寝ました。そして朝起きてまた散歩して、バスで峠を攻めて帰路に着きました。中津川には馬籠という江戸時代の風情を残したフォトジェニックな町もあったのですが僕の目的は静養だったので、今回はパスしました。いやぁそれにしてもあの誰もいないホテルの周囲の散策路。こーいうのでいいんだよってやつだね。一人になれて大満足の小旅行でしたよ。一人で旅行に出るのは初めてだったけど、これを期にさらなる孤独を求めて旅に出たい、中津川はそう思わせてくれました。結局リベンジっていうか、殴りあった後疲れ果てて二人ならんで空を見上げてる、そんな感じになりました。まぁ、いいや。リベンジとか適当に言っただけだし。それではまた。

アニメについて 『ご注文はうさぎですか?』

 こんにちは、無職だよ。今日は陰気なオタクらしくアニメについて書いてみようと思う。取り上げるのは『ご注文はうさぎですか?』という作品だ。
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 このアニメは漫画を原作にして2014年に第1話が放映されたんだ。どんなアニメかというといわゆる日常系なんだ。たとえば、『ひだまりスケッチ』や『のんのんびより』と同じ系譜だと思ってくれればいい。内容はというと、これら日常系のアニメの鋳型からは特に外れていないものになっている。つまり、競争や努力や異性との性的な関係を見せないキャラクターたちが、ボケとツッコミを介した緩いコメディを展開しながら1話完結型のぬるま湯のような物語を展開していくんだ。これぞ日常系ってやつなんだ、ごちうさは。

 あらすじを簡単に説明するとこんな感じ。ある町にやって来たココアという女の子がその町の喫茶店で住み込みで働きながら学校へ通う。彼女はその明るい性格からすぐに友達もできて、バイト先の同僚の女の子たちやクラスメイトの女の子とキャッキャッウフフと日々を紡いでいく。まあ、ざっくりこんな感じ。ほんとになにも考えずに見られるアニメなんだ。

 この物語で重要なのはこのココアちゃんっていうキャラクターなんだ。学校へ通うために別の町から引っ越してくるんだけど、この引っ越してきた町ってのがすっごくファンシー。ベルギーみたいな西洋風の町並みに、カラスや小汚ないハトのかわりにかわいい野良うさぎがいるんだ。(まあカラスも多少いるみたいだけど。)アニメの第1話の冒頭ではこの町並みが美しい背景イラストとして描かれている。でもなんだかこの町って綺麗なだけで絵みたいに静止している印象を受けるんだ。(実際絵だけど。)しかし、そこに現れたるは嵐を呼ぶ女ココアちゃん。彼女はある喫茶店に惹かれて店内に入り込む。突如入店してきた彼女はそして叫ぶんだ「(この店には)うさぎがいない!!」穏やかなこの町にとって彼女は完全に招かれざる客だ。このお客を見たウェイターのチノちゃんはもうすごい唖然とした顔で呟く「なんだこの客...」でもチノちゃんの表情をみると驚きながらも古い友人と邂逅したかのように目が潤んでいて、どこか彼女のような人を待ち焦がれていた、ともとれる印象も受けるんだ。

 物語はこうして始まるんだけど、このお話、ココアちゃんという少し風変わりな女の子が突然現れて、止まっていた物語の歯車を回してくれるっていう構図なんだ。こういうのってフィクションではよくあるよね。アニメだと『NHKにようこそ!』とか、文学だと数えきれないほどある、例えば『ティファニーで朝食を』なんかだ。こう考えるとさっき触れたチノちゃんの表情には、期待や驚き、不安などなど、今後どうココアにこの物語が振り回されるんだろう、っていう示唆が大いに見受けられるね。

 こういう構図を持ってるてことは、この物語、ココアちゃんだけが主役じゃないんだ。そう、つまりチノちゃんの成長の物語でもあるんだ。

 いいね、突然現れた女の子が自分を導いてくれるなんてさ。オタクの理想だよ。オタクって受け身なんだ。だからいつも自分を救ってくれるものを待ってる。ホリー・ゴライトリーを、ココアちゃんを...

 二人の関係についても少し書こう。こういう話ってだいたい現れた女の子は対峙した人物を補う分身として描かれるんだ。陰と陽っていうか太陽と月っていうか。このお約束の通り、ココアとチノの関係ってのもすごく対照的(ココアは明るくチノは引っ込み思案)なんだ。だから彼女たちを二人で一つみたいな感じに見ることができる。アニメに則していうと彼女たちはコーヒーとミルクのような二人なんだ。ちなみにアニメではチノはコーヒーが飲めないんだ。きっといつかチノがコーヒー嫌いを克服するとき、そこが物語の終点なんだろうね。

 ごちうさっていうのは以上のようなお話。僕はこの作品が大好きなんだ。でもそれを説明するのってなかなか上手く言葉にはできない。なぜならこのアニメは日常系だからだ。

 一般的にフィクションって、非日常的なスリルのある物語を楽しみたいから読んだり、一種の思考実験的な感じでキャラクターを動かしてその心理を観察したいとかっていう動機で作られていると思うんだ。でもこの作品は日常系だぜ。山場もたいした人間模様もないし、あるのはちょっとしたコメディぐらいなんだ。でもなぜか見てしまうんだ。それも本気で見るんじゃなくてぼーっと眺めながらリラックスするんだ。

 僕はそこで思ったんだ。日常系から受けとるのは思想や言語的なものじゃなくてもっとプリミティブで単純な刺激なんだと。これが何に一番似ているか、っていうと音楽なんだ。僕たちは日常系を見るとき、作者の意見や思想に思いを巡らさずにただ受け止めればいい。脚本はメロディで声優の声は楽器の音色に他ならない。音楽なんだからなにも考えなくていいんだ、と気付いて腑に落ちたね。日常系アニメは音楽に最も近い表現手段。これが僕の今回の結論だ。

 今回は『ご注文はうさぎですか』について語った。興味を持った人は、せわしない日常の鎮静剤としてこのアニメをご覧になってみては。

 

 

視線は死線

 私はまなざしを世界に向けることによって世界の意味を構成し、所有していた。ところが他人のまなざしが出現すると、今度は他人が私の世界を構成し、所有し、私の世界は盗まれる。そればかりか、他人が私にまなざしを向けると、私についての評価が相手に委ねられ、自分が自分のものではなくなってしまう、と。しかし他人がいるかぎり、そして他人が自由であるならば、私がこうした他有化を蒙るのは当然のことです。そこでサルトルはこれを「自由の受難」と呼び、「人間の条件」と考えている。

[100分de名著

 サルトル実存主義とは何か』]

 

 他人が自分をそのまなざしで見るとき、僕たちは相手の対象となる。自分のために自分の意思で活動していたはずが、他者の視線により今度は自分が相手に評価される。そのとき自分は自分だけのものではなくなってしまう。せっかく自由に振る舞っていたのに他人の視線を意識しなければならない。サルトルは地獄とは他人だと言った。まなざしによる対象の評価に救いはない。まなざしを恐れまなざしに媚びれば媚びるほど結局自分を失うのだ。

 僕はサルトルのこの意見がよくわかる。僕は常々他人の視線に居心地の悪さを感じているからだ。この居心地の悪さ、不快感を感じるのはもちろん自分の自由が奪われることにもあるけど僕にとってその最もたる理由は他人の視線に対する仕返しの問題にある。

 まなざしに対する仕返しはまなざしを向け返すことにある。つまり、お前の見ているこの男はまたお前と同じ自由を持っている、そしてお前をまた見て評価しているのだ、俺たちはこんな薄汚れた行為をやりあって生きているんだ、思いしれ、と。(睨み返すという暴力的手段も考えられるけどやはり視線を一時的に遮断するだけで意趣返しにはならないように思う)

 僕が言いたいのはこの仕返しが通用しない人々が大多数であるという点だ。こういった人々はもはや自分というものがないのだ。他人を評価するだけで他人の視線など受け付けない。なぜなら彼らは幼い頃から自然に他者のまなざしを疑いもせず受け入れながら生きてきたため終いに他者のために人生を生きるようになったからだ。彼らは完璧な他者としてのみ存在し、エコーチャンバーのように何もかもを跳ね返し吸収する。名前ならいくらでもある。大衆、蓄群、衆愚、奴隷...

 サルトルとは違うかもしれないが、僕にとっては一方的にただ僕を評価する連中が大多数の他者だ。他者とは地獄なのだ。いつも外に出て道を歩くと、この理不尽に叫びたくなる。いや、言葉は通じないのだ。ただ暴力だけが手段として残されている。たまにこの暴力を使うやつもいる。人混みに車で突っ込むとか。でも結局逃げられない。また裁かれるだけ。

どちらかというと、なりたい...

つまり「萌え」っていうのは、つきつめれば「美少女キャラを俺様のものにしたい」という欲望なんだね。これに対して女性の場合は、どちらかといえばキャラになりきりたい、という気持ちが強いんだけど、この「持ちたい」と「なりたい」の違いっていうのは、けっこう大きいんだよ。『おたく神経サナトリウム斎藤環

 

 僕は男だけどなりたい派。AVなんかも女優になった視点で見るから、女優が演技できゃんきゃんいってるのよりガチっぽくうおぉぉ!!って感じてるのが好き。←キモい

 ただ「成りきり」にも対象に同化しようとするという点で所有欲は見いだせるかも。なんなら所有の究極系かもしれない。好きだけど手が届かない→なっちまえばいいじゃん、キャワな美少女に。だけど具体的な所有という手段は取らないってことは自分の頭の中で所有欲を補完してるわけだ。相手との関係の中で目的を達成するのと、自分自身のロマンの中で補うのとじゃ分けが違うのか。ある意味で僕は現代的。物質主義に反発する若者。←適当

 でもたしかに、女性はコスプレで男は買い漁りって感じでコミケもすみわけられてるし、斉藤氏の区別も当たってるね。

 

日記

 運転免許証の更新の期日が差し迫っていたため、港区にある警察署に手続きに行った。 

 免許更新のためにある薄汚れた警察署の敷地内の建物に入ると何人かが手続きをしていた。受け付けには3~4人ほどの警官とパートらしき女性がいた。警官の特性なのだろうか、彼らは遠慮無く、人を訝しむような視線を投げ掛け僕を観察しているようだった。パートらしき女性は親切だったが、年配の警官は横柄な態度で僕に手続きを指示した。いずれにせよ、手続きは彼らの説明不足のせいであまりスムーズにはいかなかった。その後永遠に続くかと思われた講習ビデオを見終え、警察署を足早に去った。やはり警察官と対峙すると、こいつらに密室でつめられるのは何としても避けたいという気持ちが生まれる。そのため、僕は痴漢くらいならやってなくてもすぐにやったと供述するだろう。

 警察署の近くには水族館があるので帰りに立ち寄った。入ってすぐの水槽にシャチやイルカがいた。いい趣向だなと思った。彼らは知性的で人懐っこいので、歓迎するようにガラスの向こう側の来客者に愛想を振り撒くのだ。
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クジラやシャチといった人間よりも大きな体躯を持った海洋生物には、どこか神秘的な感じや崇敬の念を抱かざるを得ないように思う。その感情は象やキリンとは違う感じなんだけど、鯨類の無駄の無い姿がその造形にあって作為的な感じを抱かせるからかなと僕は思う。

 館内を歩き回ってて思ったのは、意外と狭い水槽のなかでも生物は自然な?というかリラックスした姿を見せているなということだった。天敵がいないこととエサを積極的に求める必要の無い環境は多少狭い場所でもストレスフリーなのかもしれない。地上の生き物はそうはいかないように思う。だからかペンギン連中は置物のようで生気が見られなかった。地上には空気と自由が必須であると感じた。

 帰りに売店でエビせんべいを買った。うめー。

                  完