夕方くらいに薬を飲むと決まって寝れない

と言う訳でブログを書こう。

今日は朝飲み忘れた薬を家に帰ってから飲んだ。恐らくそのせいだと思うが夜の1時を過ぎても寝付けない。たまに眠りに入りかけている事はあるみたいだが強烈な耳鳴りと金縛りの後覚醒するという状態を繰り返している。

僕はかなり金縛りに会う体質だ。これは子供の頃からである。1番怖かった金縛りは部屋に女が入ってきて苦しむ僕が横たわるベッドを踏み荒らしていくという夢との合作のようなやつで非常に不愉快な思いをした。

僕の場合は金縛り時に耳鳴りが殆どともなっている。ゴーッ!!と言うやつだ。

このゴーゴー系耳鳴りはメニエール病でも起こるらしい。

メニエール病は内耳にある内リンパ液の調整ができず、平衡へいこう感覚に異常が生じて吐き気やめまいを発作的に繰り返す病気です。https://medicalnote.jp/symptoms/%E4%BD%8E%E9%9F%B3%E3%81%AE%E8%80%B3%E9%B3%B4%E3%82%8A

根本的には自律神経の不調なのだろう。

高校生の頃に居眠りをしていて目が覚めたら強烈な貧血になって引きずられて運ばれたことがある。このときも経験したことの無い耳鳴りがし立っていられないほど平衡感覚を失った。失血死する時ってこういう感じなんだなと失われていく意識の片隅でその時僕は思ったのを覚えている。

とにかく特定の耳鳴りの原因が自律神経の不調にあるとすると、その根幹の原因を特定するのは困難であるはずだ。自律神経はあらゆる要因で乱れるめんどくさいやつだからだ。

だから金縛り中の耳鳴りの原因も不明としか言えない。検索しても明確な答えは出ない。なぜか内リンパ液の調整ができないのである。これ以上考えても無駄だ。諦めよう。

ちなみに部屋に誰かが入って来る系の金縛りはかなりポピュラーのようだ。なんでみんな同じ夢(幻覚)を見るのだろうか。人体の不思議だ。すごい。

人体の不思議といえば、以前新宿で女性に刺されたホスト氏がもう復帰して働いているのを知った。すごい。しかも源氏名が「不死鳥るな」となったようだ。

刺されても輸血して縫い合わせればすぐ元通りになるものなのか人間は…

ウーマン村本事件。これにも触れたい。

一般人と反社会的勢力との関わりが問題になっている中、芸人ウーマン村本が出した論理がこれだ。

「さっきコンビニで男が水買ってたけど その金が悪いことして稼いだ金ならその金を受け取ったコンビニ店員も裁いて 今回の件、忘年会の会場を貸したホテル側も裁けよ」

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190627-00000130-dal-ent

芸人は反社会的勢力の仕事を受けるべきではない→なぜなら反社会的勢力と契約し利益やサービスを与えることは社会の不利益になるし、反社会的勢力が対価として払う金は不正に得た金でありこれを受け取ることは道義に反するから→このことは当然芸人だけには限らない→従って店員やホテルが反社会的勢力と売買契約を結んだり金を貰いサービスの提供をしたりしてはいけない。

な、なんてわかりやすい論理なんだ!

確かにその通りである。芸人に対してだけ反社会的勢力との関わりを非難することは大変な不平等だ。

では、仮に暴力団員にコンビニ店員が水を売ったことをテレビで取り上げ非難することとしよう。こうなるともはや暴力団員に品物を売る店はなくなるだろう。結果、実質的に暴力団員は暴力団員として日本で生活することはほぼ不可能になるわけだ。

しかし実際にはこのような徹底した反社会的勢力の排除は起きない。

暴力団の存在自体が否定されていないからだ。

日本では国家権力が暴力団があるからといってその拠点に実力行使をして排除することはしない。むしろ指定暴力団という形で法律上も存在が肯定されている。

暴力団(反社会的勢力)と国との関係がそもそも矛盾しているのだ。警察は暴力団と付き合いをやめろという。しかし暴力団の存在自体は認める。

これには様々な理由があるだろうけど、日本には結社の自由があることがその1つと言える。

ドイツなどは明確に結社の自由の例外を設けている。例えばドイツでは民主主義を否定する政党は結社を禁止される。

とはいえ自由権が保障されている国では、こういった日本と反社会的勢力との関係における矛盾のような問題は常に内在されていると言っていい。

アメリカだってそうだ。ヘイトスピーチを否定しながらヘイトスピーチを行う団体の存在を容認している。

結果こういった矛盾(呼び方はなんでもいい)は国と特定の団体との関係だけでなく個人と団体(暴力団等)との関係にも及ぶ。

そして我々は暴力団の存在に限りなく否定的な形で疑問を抱きながらも、自由権へのある種の奉仕に近い形として彼らと彼らが生活をする上で必要とする売買契約などを結び彼らに水を提供するのである。

自由権というものを至上命題とする立場の人たちはこんなもんは当然の事であって矛盾でも何でもないと言い切るかもしれない。

ただまあ僕はそこまででもないので矛盾とかそういう言葉をここでは使いたいと思う。

とにかく我々は自由を求めながらも暴力を排除したいという欲求を持つ以上、相反した行為・一見して矛盾した行為に囚われ続けなければならないのである。

もちろん、反社会的勢力と分かっていながらその人に水を売ることと反社会的勢力と分かっていながらその宴会に参加し対価を得ることに大きな違いは無い。

これは良くてこれは駄目というのは正に身勝手な線引きである。

しかしこれこそが各々の自由に対する意識の現れであるのは否定できない。

僕が言いたいのは論理に流されここで完全な反社会的勢力の肯定か否定かのどちらかに傾く必要はないという事だ。

つまり社会とはそういうもんだとしか言えない。

もう3時半だ…