どうでもいいこと色々

亀レースの衝撃

モヤモヤさまぁ~ずという番組で芸人のさまぁ~ず一行が伊豆の動物園に行った企画があった。そこでは亀が競争をするイベントが行われており、見物客はどの亀が勝つかを予想し的中させることで景品が貰えることになっていた。そこで番組の出演者たちは各々その予想に参加することにした。そしてレースが始まったのだが、今まで出演者達にかなり冷めた態度をとっていたそのレースの進行役の人が、まさに人が変わったかのようにレースの実況を快活にこなし始めたのだ。さまぁ~ず達もこれには流石に驚いたようだった。見ていた僕も驚いた。レース後、彼らはその実況者の男性に再び話しかけに行ったのだがやはりなんだかお喋りには気が乗らない様子。仕事になるとスイッチが入る感じらしい。

ユーチューブで動画を確認したところマツコの番組に出ていたカメ司会者氏の動画があった。彼はインタビューを受けていたが、さまぁ~ずの時より気さくに話していた。話し方はかなりゆっくりしていたけれど。彼はのんびり屋の亀さんが一生懸命やってるのを見るのが好きらしい。テレビカメラの前で自然に亀さんなんて言ってしまうのがカワイイ。彼は今日も亀を実況し子供を笑顔にしているのだろうか。

 

働かないで食う飯は美味いか?

元ネタは判然としないがネットでよく言う言い回し。

派生系として、主にHIKAKINに対して言う「子供を笑顔にして食う飯は美味いか?」などがある。

Twitterではこのミームを元にして、高須克弥氏に対し「ちんこの皮を切って食う飯は美味いか?」とリプライを送った人がかつていた。マジレスすれば、高須氏のクリニックでは確かに包茎手術もやっているだろうけど別にそれだけではない。でも上手いこと言ってるなと思って結構笑ってしまった。他の人もウケていた。

子供を笑顔にして食う飯。大概こういう仕事は笑顔を得る為にその人が自分自身を犠牲にしなければならない事が多いが、その点でヒカキンは奇跡的なモデルだ。傷つけないし、自分も傷つかない。苦労はあるだろうが、どこか気負わないところがある。昔の偉い芸人なんかだと人を笑わせるためには幸福になっちゃいかん云々なんて言うけど、ヒカキンは幸福そうに見える。そして子供を笑わせている。僕はそこに好感を持つ。伊藤忠の三方良しみたいだ。そんなもんかつて実在はしなかったがヒカキンはそれを地で行く奇跡なのである。


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ルフレジでの敗北(何回目か忘れた)

先日ツタヤでセルフレジを使ったが、DVDケースの鍵が説明を見ても全く開けることが出来なかった。ちなみに前も分からなくて店員に聞いた。しかしその方法も時がたって忘れてしまった。結局また店員に聞くのも流石に失神KO並の完敗なのでやめた。結局DVDはそっと返却ボックスに入れた。もう二度とツタヤでは借りないだろう。

その前にはイオンのセルフレジを使った。説明を見ても分からなくて適当にやっていたら店員が助けに来てくれた。どうやら僕は本来とは反対の方向にかごを置き操作していたらしい。

ルフレジは本当に複雑だ。カゴを置く場所も決められているし、最期に重量を測るためにまたカゴを別の台に移動しなければならない。そして決められた段階で買い物バッグを所定の引っ掛けスペースにかけさらにタッチパネルを操作し全ての商品を確実にバッグに詰めなければならない。しかもこの引っ掛けるところがどこか説明を見てもよくわからなかったりと来る。そしてどんどん焦るわけだ。

とにかく、店側はこの説明の箇所を全く人に理解させる気がないように思う。直感的に人に理解させるユーザビリティみたいなものが一切欠落している、いかにも日本的な構図とデザインと思考がこの説明の張り紙にはあるように思う。これはイオンに限ったことではない。どこのセルフレジも全く理解不能だ。

なぜ店員の人がやっているシンプルなレジ処理をさせてもらえないのだろうか。万引き対策なのか?確かにセルフレジの導入によって万引きが増えたという統計が海外であるらしい。そうかじゃあ仕方ないな。あきらめよう。万引きは良くない。

ルフレジは僕のようなクソアホロボットには高等すぎるのだ。

 

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泣けるアニメ

今更、京都アニメーションのアニメAIRを見返した。懐かしい。PS2版をやったのが14〜5年前だ。当時はあまり好きでは無かった話が今見ると逆に印象に残る形になった。

あらすじはこんな感じ。

ある女の子がいつも仲良くしていた年下の女の子がいた。毎日、人気の無い廃駅の前で彼女たちは遊んでいた。年上の女の子は多分薄々感づいていたのだろうが、実は年下の女の子の方はこの世の人間ではなかった。その正体は、かつて年上の方の女の子の母親が流産した自分の妹となるはずの子が幻想となって現れたものだった。妹の方は当然自分がこの世に留まるべき存在では無いと理解しており、そろそろ姉に別れを告げその夢から彼女を目覚めさせなければないと語る。結果、姿を消す前に姉にしっかりと別れを告げ、妹の幻想は消え去っていった。その後、姉は離婚した父の元を訪れる。そこには父とその新たな妻との間に生まれた子どもがいた。話しかけるお姉ちゃんの方。

 

「シャボン玉、好き?」

「うん!大好き!でもねでもね上手く膨らまないの…」

「じゃあお姉ちゃんが教えてあげようか」

「ほんとう?」

「ええ。お友達になりましょう。わたしは美凪。あなたのお名前は?」

「あのね!あのね!」

 

台詞はここで終わり、物語もここで終わる。

このシーンが本当に好き。話かけるお姉ちゃんの穏やかな口調がこの物語の救いを象徴している。

文字だと分からないけどこの本当の妹の方は消えた幻想の子と姿も声も同じ。そこまで見せといて最後に名前までは言わないってのは中途半端な感じもあるけどそれも良し!

本筋の話の方は悲しい結末を迎えちゃうんだけど、そのせいで余計良かったねと感動してしまった。

うっうっ(:_;)


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自分の言っていることが全て見透かされているような感覚

人は皆、僕が語る言葉の裏を読もうとしているのではないかと感じてしまう。例えば、お前本当嫌だって言っているけど別に嫌いじゃないんだろうと思われたり、ことさらに僕の発言の裏に無意識や願望を見つけようとされたりしているのではないかという疑念が強く感じられる。つまり、僕の言っていることが全く信用されていないのでは無いかと僕は常々思っている。

信用されていないのに頑張って思いを伝えても傷つくだけなので黙っている方がましだが、やはり他者の理解を得たい事は多い。

この点で心理学などはかなり絶望的だ。治療目的なら別だが、何を言ってもそれは君の無意識が根底にあってだねと紋切り型な見方に押し込められてはなんと反論しようと暖簾に腕押しだ。

しかし、人の発言を字義通り捉えるということは普通はしない。それがお世辞であるとか社交辞令であるとかといった判断は通常されてしかるべきだ。

このことから、こういった日常的な判断や疑いをあらゆる会話において援用し、みなが自分なりの解釈を得ようとするのは当然であるのかもしれない。

化物語に出てくる貝木泥舟は、俺を疑うのは酷く正しいといった。そうかもしれない。人を疑うのは恥でも卑怯でも無く当然のことなのだ。

僕の言うこともやはり疑われて当然なのだ。

こいつは威勢がいいことを言うが臆病な心がそうさせているだけだとか、悲観しながら希望を持っているとか、あらゆる解釈が真実として僕と対面した人たちにあるのだろう。

自分自身の問題の評価を全て他者に委ねている人もたまにいる。その人はある意味で潔い。自分で自分のことを見るのは不可能だと判断しているのだ。無意識は意識できないから。

でもこうなると自分とは一体何なのかということになる。自分の欲望も不満も自分では何も分からないまま、全て心理学や他人が決めた当座の解釈を受け入れることで人は自分を保てるのだろうか。

僕は自分が一番だと思っているので、自分の事は自分の思ったことだけが真実だと捉えている。僕の言ったことや書いたこと以上の事は何もないと言いたい。しかし思えば人と話すときはほぼ嘘しか言っていない気がする。本気で人を相手にしていないのだ。これまた化物語の撫子と同じだね。

面白いのは僕が適当に言っていることのほうがみんな納得してるように感じられる点だ。そうした反応が余計に他者への不信感に拍車をかける。

たまには本気で人と話してみたいなと思って、頭の中でいろんな人と会話をするんだけどそれもうまく行かない。結局自分への疑いに疑いを重ねていくことになるからだ。

例えば今回の話でも、お前が信用されていないと疑うのはお前が人を信用していないことの裏返しだろうがなどと何度も思考に対して反駁をしていく。でもそんなことを自分でどこまで続ければいいのか分からない。やはり心理的なことは他人頼りになりがちなのだ。

安易に自己の心理を自分で掘り下げてそれを免罪符のようにチラつかせるのは不純なことだと思う。直感的にそう感じる。

心理的なことは他人の解釈に任せるとしたら自分では他に何を見つけることができる?

人はこうして宗教に走るのだろうか。あるいは哲学か。

シモーヌ・ヴェイユは真空だと言った。空っぽになった身体に恩寵がやってくるのだと。恩寵がなんなのか、内なる神か恍惚か啓示か悟りかまた別のものかは分からないが、この全て何も無くなった所で理解があるという感覚はよく分かる。否定や肯定で生まれるものじゃない何かがある気がするんだよなぁ。

何も無いってのがあるのかな。

こう言うとそれっぽくも安っぽくもある…