日記と思ったこと少し

 ブログのネタは日記に限らなければ何だってあるが、日記が一番楽なので日記を書く。

 今日は朝からスーパー銭湯に出かけた。この施設には風呂の他に岩盤浴やサウナが楽しめるサロンスペースがある。このスペースは子供が入場できなくて割りと静かなため、僕は好んで利用している。ここではマンガが無料で貸し出されているので今日はモンキーターンを読んだ。しかし帰ってからやろうと思っていることに気をとられ内容は頭に入らなかった。せっかく銭湯に来たのにいまいちリラックスできなくて辛い。その後もソワソワは治まらなかったのでさっさと入浴して退館した。

 気分転換に歩こうと思い、徳川園に向かった。2日ぶりに陽の光をあびる。最近はPCで作業することが多く録に外出すらしていなかった。音楽制作者のレイ・ハラカミは夭逝したが、彼も僕同様毎日じっと座って終日作業に打ち込んでいたに違いない。思うに、彼の死にはこういったあまり体を動かさないライフスタイルにも関連があるのではないか。気を付けなければ。

 少し歩き徳川園に着いた。入園料は300円。静かで手入れのされた美しい日本庭園を300円で散歩がてら歩きながら楽しめるのだ。良心的な価格設定だと思っている。
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園内は、日曜日で少し観光客が多い印象を受けた。ほとんどがカップルか家族連れだ。孤独を感じながら、風に巻き上げられたごみ袋のように僕はフラフラと漂う。久々に歩いたのもあってすぐに疲れてしまい、風情など感じる間もなく早々に退散した。

 日本庭園のように健康的で文化的な場所にはある意味で健全な人たちが集う。なかなか僕みたいな友達もいない落伍者はその様な場所を居づらく感じてしまう。

 では一人であることに対して卑屈にも身勝手な劣等感を抱いている輩は何処へ行けばいいのだろうか。僕の答えはパチンコ屋である。なぜか?その根本的な理由は、パチンコがあくまで運に左右されるゲームなことにある(打ち手の実力は長期的にはいくらか作用するが何回かの試行ではそれほど差はないように思う)。

 店にはあらゆる社会的な立場の人が来る。カップルもいるしヤンキーもいる。しかし店内の誰もそれを一切不思議に思わない。日頃の行いやその人の社会的な立場など、平等な抽選(運)で勝ち負けを決めるパチンコには関係がないからだ。だからパチンコ屋はあらゆる人を受け入れるし、ギャンブラーたちもどんな人がいようが大して気にも留めない。そしてパチンコ屋の中には、前科者もカップルも年寄りも誰しもが平等であるという暗黙の了解が空気のように充満していき、人は排斥感を覚えにくくなる。

 このようなパチンコ屋の空気(但し煙草くさい)が好きで僕も以前はよく通っていたが、金ばかり減るのでやめてしまった。しかしどこかで居心地の悪さを感じるとパチンコ屋が恋しくなる。朝読んだモンキーターンでも、ギャンブルに関わっているからこそボートレーサーは、性別や社会的な立場や人柄など関係無く実力のみをもって評価されるとあった。やはりギャンブルにおいては勝ち負けに関すること以外の情報など必要ないのだ。そこには誰もが勝者になりまたは、ぼろ布のような惨めな敗者に成りうる残酷な世界があるが、その根底にはあらゆる者を受け入れる寛容さがあるように思う。

 何だか書いていて思ったけど、これはギャンブルに限った話ではないかもしれない。とにかく僕はギャンブルは非情であること。そこに居心地の良さを感じることが言いたかった。情が人を苦しめている。非情ならあきらめもつくってことだ。

 こんなこと考えていたら日が暮れた。あぁ...