視線は死線

 私はまなざしを世界に向けることによって世界の意味を構成し、所有していた。ところが他人のまなざしが出現すると、今度は他人が私の世界を構成し、所有し、私の世界は盗まれる。そればかりか、他人が私にまなざしを向けると、私についての評価が相手に委ねられ、自分が自分のものではなくなってしまう、と。しかし他人がいるかぎり、そして他人が自由であるならば、私がこうした他有化を蒙るのは当然のことです。そこでサルトルはこれを「自由の受難」と呼び、「人間の条件」と考えている。

[100分de名著

 サルトル実存主義とは何か』]

 

 他人が自分をそのまなざしで見るとき、僕たちは相手の対象となる。自分のために自分の意思で活動していたはずが、他者の視線により今度は自分が相手に評価される。そのとき自分は自分だけのものではなくなってしまう。せっかく自由に振る舞っていたのに他人の視線を意識しなければならない。サルトルは地獄とは他人だと言った。まなざしによる対象の評価に救いはない。まなざしを恐れまなざしに媚びれば媚びるほど結局自分を失うのだ。

 僕はサルトルのこの意見がよくわかる。僕は常々他人の視線に居心地の悪さを感じているからだ。この居心地の悪さ、不快感を感じるのはもちろん自分の自由が奪われることにもあるけど僕にとってその最もたる理由は他人の視線に対する仕返しの問題にある。

 まなざしに対する仕返しはまなざしを向け返すことにある。つまり、お前の見ているこの男はまたお前と同じ自由を持っている、そしてお前をまた見て評価しているのだ、俺たちはこんな薄汚れた行為をやりあって生きているんだ、思いしれ、と。(睨み返すという暴力的手段も考えられるけどやはり視線を一時的に遮断するだけで意趣返しにはならないように思う)

 僕が言いたいのはこの仕返しが通用しない人々が大多数であるという点だ。こういった人々はもはや自分というものがないのだ。他人を評価するだけで他人の視線など受け付けない。なぜなら彼らは幼い頃から自然に他者のまなざしを疑いもせず受け入れながら生きてきたため終いに他者のために人生を生きるようになったからだ。彼らは完璧な他者としてのみ存在し、エコーチャンバーのように何もかもを跳ね返し吸収する。名前ならいくらでもある。大衆、蓄群、衆愚、奴隷...

 サルトルとは違うかもしれないが、僕にとっては一方的にただ僕を評価する連中が大多数の他者だ。他者とは地獄なのだ。いつも外に出て道を歩くと、この理不尽に叫びたくなる。いや、言葉は通じないのだ。ただ暴力だけが手段として残されている。たまにこの暴力を使うやつもいる。人混みに車で突っ込むとか。でも結局逃げられない。また裁かれるだけ。